社長の生い立ちと「家づくりへの想い」

昭和54年(1979年)7月18日(水)

四万十川で有名な徳島県三好市池田町のとある病院にて、竹信家の長男として誕生。

父親は自動車メーカー「日産自動車」の整備士、母親は看護師の仕事をしていました。

母親が出産のため実家へ里帰りした為、私の生まれは徳島県ですが生後まもなく広島県福山市へ戻り、6歳までの幼少生活を福山市野上町にて過ごしました。

小学校に上がるタイミングで父親の故郷である神石郡豊松村(現在の神石高原町)へ引っ越し、村で唯一の豊松小学校へ通うことになりました。

全校生徒は約100名という限界集落にある唯一の小学校です。

私は生まれながらに右耳が全く聴こえないという障がいを持ち、小学1年生から3年生までの間に計4回の手術を受けました。

今も聴こえない為、苦労することがあります。

両親の仲もいいほうではなく、ついに私が小学3年生の時に離婚。

小学4年生の時に再婚。

身体や家庭のことでいじめにも遭い、テレビドラマで見るような壮絶な小学生時代を過ごしました。

当時、「嗚呼!バラ色の珍生!!」というテレビ番組がしていましたが、私の方がよっぽどひどい境遇だと思っていたのをよく覚えています。

しかし、今思い返せば、この時代が私の大きな財産であり、糧となりました。

幼い頃の私は、じっとしておらず動き回るタイプでお調子者、そして負けず嫌いを絵に描いたような子供でした。

そんな私が、野球を始めることになります。

小学3年生の寒い冬でした。

全く興味もなく、知りもしなかった野球ですが、他の同級生男子全員(5名)が野球チームに入ったので訳も分からず私も入部しました。

どういうわけか運動神経だけは幼稚園児の頃からよかったんです。

しかし野球のルールも全く知らないので、周りの皆に負けてばかりでした。よく悔し泣きをしていたのを今でもハッキリ覚えています。

とにかく負けず嫌いな性格だったので、学校から帰っては壁にボールを投げて練習していました。

こうして始めた野球でしたが、結果、36歳まで続けることになろうとはこの時は知るよしもありませんでした。

野球を通じて、友達や仲間もでき、中学では周りの推薦もあり生徒会長も務めさせてもらいました。

あれだけ幼少期に人前に出るのが嫌で嫌で怖かったにも関わらず、中学を卒業する頃には人前に出ることに喜びを感じていました。

その後、地元に唯一ある油木高校の普通科へ進学し3年間、野球で甲子園を目指しました。(人数ギリギリの弱小高校でしたが、部屋には目指せ!甲子園!!の紙を貼っていました)

高校生の頃、将来の夢を考え始め「警察官」になりたいと思い色々調べてみました。

応募要件は五体満足であること、、、私の夢は挑戦する前に儚くも散りました。

次に考えたのが、建築関係です。

建築士&設計士に憧れを抱き、両親に「進学させてほしい」と何とか説得し、高校卒業後は建築の専門学校へ。

専門学校卒業後はハウスメーカー(カープファンという理由だけで、カープスポンサー企業)へ入社。

いつかは独立!自分の工務店をもつ!と志していたので、結婚を機に広島から福山へ戻りました。

子宝にも恵まれ、地元工務店で住宅の現場監督として経験を積み、その後地場ゼネコンへ転職。ビルや商業施設といった大型複合施設の施工管理に従事し所長を任せてもらえるようになりました。

毎日、深夜まで働きながら勉強し、一級建築施工管理技士や監理技術者を取得した後、指名や設計業務も任せていただくようになりました。その後、住宅関連の営業職を経験。

同時期、地元福山の少年野球のクラブチームにて指導者を7年間させてもらいました。

この時、子供たちや親御さんとのコミュニケーションを通じて、人を育てる楽しさ、夢や目標に向かっていく情熱が再燃しました。

36歳まで監督をさせていただいたのですが、最終年は福岡にて開催された「ちびっ子甲子園」へ広島県代表で出場!

全国ベスト8にて遠征費が尽き、泣く泣く福山へ戻ってきたのは懐かしい思い出です。

この年を最後に、監督を引退させてもらい、2016年に「リノアーク」を設立しました。念願の独立です。

少年野球チームは今も顧問として在籍しています。

1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生。

1995年1月17日の朝「ゴゴガガゴォー!!」

下から突き上げるような大きな揺れと衝撃。

私の住む広島県は震度4。そして生き別れた母と

妹がクラス神戸は震度6強。

壊滅的な被害に見舞われ、そこから一切の連絡がつかなくなりました。

インターネットも何もない時代です。

それから16年後、2011年3月11日14時46分、東日本大震災が発生。

当時の私は31歳。社会人真っ盛りの頃でした。

テレビをつけると、衝撃てな映像の連続でした。

「自身被災家屋調査判定士」という復興支援に助力する為の資格も取得していた為、微力ながらボランティア活動にもいきました。

人生において2度の大きな地震を経験した私にとって

「建物の役割は生命と財産、そして安心した生活を守ること」と強く考えるようになりました。

建築に関わる身として、「安心して暮らせる家」を提供することこそ、私の使命ではないか。

そう考えるようになりました。

東日本大震災の翌年、25年振りに生き別れた母・妹と再会を果たします。

インターネットが普及した現代だからこそ実現しました。

そのような経験もあり、「家族が幸せに暮らす」為にはどうしたらいいかを強く考えるようになりました。

「目先の利益に惑わされてはいけない。お客様を想う心を大切にしていきたい」

創業の想いを大切にひとつ一つのご縁を大切にしながら仕事に取り組みたい。

「誰にでも手の届く価格で、若い世代の方に適正価格でお家を提供したい」

メーカーに直接価格交渉したり、協力業者にも粘り強く協力のお願いをしました。

私の目指す家づくりは

「安いだけの住宅」

を建てることではありません。

適正な価格で若い世代の方でも末永く安心して暮らすことができる、

「地震に強く、耐久性の高い家」

そして、

「家族みんなが幸せいっぱいのお家」です。

それを実現するために、

非常に長い時間がかかりましたが、高品質でありながら、手の届く価格である住宅「PEACE(ピース)」の商品開発に成功しました。

最初にご注文を頂いたのは、協力会社さんの紹介でした。

今まで現場監督として誠実な仕事をしてきて、協力会社さんに仕事を見てもらえていた結果だと喜んだのを今でもしっかり覚えています。

2020年の春まで、私が現場監督、営業、打合せをしていたのですが、年々、受注棟数が増えて行き、現場監督が困難になってくる事が予想できたので、現場を離れることを決断!!

2022年11月、現在の事務所、福山市千田町二丁目に新社屋を建て移転することにしました。

さらに自然素材にも出逢いました。



私の息子(長男)が幼少期、ぜんそくをもっていたこともあり、

「もっと建築を通して子供たちに出来ることはないか?」と

考えるなかで、シックハウス症候群という言葉が目に留まりました。そして勉強しました。

身近にある、カーテンや家具、ダニやほこり、タバコといった室内にあるもので、誰でもシックハウス症候群になる可能性はあります。

シックハウス症候群がさらに悪化すると化学物質過敏症という病気になります。

例えば人間は赤ちゃんから大人まで、それぞれがある程度のコップを持っています。

そして毎日毎日悪い空気を吸うと、その成分がだんだんコップに溜まっていきます。

コップの容量はその人の体型などにより違いますが、徐々に徐々に悪い空気が溜まっていって、ある一定の限界を超えると溢れてしまいます。

そして溢れ続けると化学物質過敏症になります。

とはいえ、すべてを無くすことはできません。

近年の家づくりでは工業製品で溢れています。

そこで新たにアトピーやアレルギーのお子様がいらっしゃるご家族に向けた住宅を考えました。そして新しい商品「Levante(レバンテ)」が増えました。

もう一つ、私が家づくりをしていくうえで大切にしていることが耐震性能です。

阪神・淡路大震災
東日本大震災
そして熊本地震

自然災害なので、どうしようもない事もあります。

しかし、工務店だから出来る事も沢山あるはずです。

福山は地震が少なく、地震前までは気密性能や断熱性能ばかりが注目されていました…

もっと地震に強い家を。

何回地震がきても耐えられる家をつくらねば。この時にそう気付かされました。

そこで考えたのが、耐震等級3+制震ダンパー+デザインを 兼ね備えた「arQアーク」です。

制震ダンパー装着の必要性を感じて当社のPEACE、Levanteにも標準仕様としました。

お客様からよく聞いていたのですが、 ○○社は最初、安く提示してきていたのに仮契約をしたとたん、あれもこれもと値段が上がっていき、不安になり契約を止めたという話を再三、耳にしていました。

「たしかに、話を進めて行く過程で価格が変わっていく部分もありますよ。」と答えていましたが、お客様が知りたいのは、家づくりにかかる全ての総額なのではないかと気付き、「入口価格」と「出口価格」の差をなくし、全てコミコミ価格の提示をして分かりやすくしようと考えました。

それと同時に福山にある金融機関をまわり、住宅ローンの事を調べていきました。

もちろん出逢った方全員がReくらすでリフォームするわけではありませんが、「出逢った方には、損をしてもらいたくない!」

私に出来ることは、いいお家を建てるのは当たり前ですが、出逢った方に正しい情報をお伝えし、数多くある金融商品のメリット・デメリットを公平な立場でお伝えすること。

そう思い、年に数回「住宅ローン勉強会」を実施することにしました。

これらの事が間違っていなかったと実感出来ることがあります。

定期点検に行った時、当時の家づくりの思い出話をしている時です。

「住宅展示場や他の会社さんではお家の話ばかりで、一番心配しているお金のことを教えてくれなかった。あの時にReくらすさんに出逢えて本当に良かった」とお言葉をいただきました。

世の中は何事も常に変化しています。

家づくりも例外ではありません。

家に対する意識も多様化していると感じますが、それでも昔から変わっていないこと。

私たちの想い「家づくりへの想い」です。

「家づくりを通して家族の笑顔と幸せをつくる」

それが、私たちが提供できる「価値」です。

家を建てることで、そこに暮らす家族の笑顔があふれ、人生に幸せをプラスできるように願い、日々学び、新しい技術や知識を積み重ね、より良いものを提供できるよう、これからも努力をし続けていきます。

変わらない想いと変わり続ける時代にあわせた家づくり。

Reくらすは、これからも挑戦しつづける会社です。

Reくらす
代表取締役 竹信勝利